宮沢賢治の作品を天文学者が読み解く
放送大学の導入科目で「宮沢賢治と宇宙」という全15回(各45分)の講義を聞いた。
賢治は明治29年(1896)岩手県花巻に生れ昭和8年(1933)に結核で亡くなるまでの37年間に数多くの詩と童話を発表した。賢治の守備範囲は広く、法華経に精通し、「石っ子賢さん」と言われ人工宝石製造業を東京で起業するプランを手紙で父に送るほどの鉱物愛好家で、農学の教師を務める傍ら、ベートーヴェンやドヴォルザークのレコードをよく聴き自ら楽曲作りも手がけるといった幅広さで、作品には精神医学や地学・天文学、物理学などの領域や時代背景を踏まえた論考も多い。
放送大学の講義では、第1回から4回は賢治の人生を辿り、詩や童話を作る背景としての生い立ちについて解説した。第5回以降は『銀河鉄道の夜』を中心に、地球物理学者、天文学者、宇宙物理学者が夫々の立場から、当時と現在の情報を対比しながら解説した。
例えば、当時は宇宙に時間が無い頃の事など想像もしなかった筈の事がうっすらと書かれていたり、星の説明において現代の動的ハッブル系列と宇宙の大規模構造と矛盾を来さない事が解説されていた。
このような賢治の優れた情報収集力と洞察力は、手塚治虫と比べても劣らない事に改めて驚かされた。
余談ではあるが、宮沢賢治は1916年9月に盛岡高等農林学校の地質調査・見学旅行で埼玉の秩父地方を訪れたようである。
以下に賢治の略歴並びに作品リストを示す:
1914盛岡中学校(現/盛岡第一高等学校)卒業
1918盛岡高等農林学校(現/岩手大学農学部)卒業
1921家出をして東京本郷菊坂町に下宿し東大赤門前の謄写版印刷所「文信社」に勤務
1921稗貫農学校(後の花巻農学校)教師
1926花巻農学校を依願退職し、私塾「羅須地人協会」を設立
1930東北砕石工場技師;石灰岩とカリ肥料を製造
作品リスト:
1917『蜘蛛となめくじと狸』、
『双子の星』
1921「法華文学」の創作
1921「雪渡り」、
1923『やまなし』
1923『春と修羅』:『青森挽歌』『樺太挽歌』「オホーツク挽歌」
1924『心象スケツチ 春と修羅』
1924『銀河鉄道の夜』
1925「注文の多い料理店」、
1931「雨ニモマケズ」、
1932「グスコープドリの伝記」